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武勇の歴史
History

結城の町で170年、その間さまざまな苦難を乗り越えてきました。ピンチをチャンスにし、美味しい日本酒づくりを追究してきた今に至るまでの武勇の歴史をご紹介いたします。

武勇のはじまり

武勇のはじまりは、江戸時代末期の慶応年間(1867年)。越後出身の初代保坂勇吉が、結城で酒蔵を創業した年です。当時の結城は、鎌倉時代から続く結城紬の生産がさかんで、酒蔵や味噌蔵などが10軒ほど連なる城下町でした。

また明治40年の陸軍特別大演習の際、明治天皇が大本営を置いたことからもわかるように、軍事的に北の要所として重要視されていた地でもありました。大本営とは、日本中で広島と結城の2か所でしか実施されておらず、当時の国の役所がすべてこの地に集結して行った特別な行事でした。

そんな結城の地での170年間の歴史は、決して平坦なものではありませんでした。

武勇の歴史:写真1

第二次世界大戦のさなか、武勇六代目保坂大二郎の母はまだ小学生でしたが、結城の上空をB29が通る景色を今でも憶えているといいます。空襲警報が鳴り響くたびに防空壕に避難することもたびたびだったそうで、武勇の敷地内には防空壕の跡地も残っていました。

この戦争で政府は、寺の鐘や学校の金属製の像、一般家庭の鍋や釘までも供出させました。酒蔵も例外ではなく、酒づくりに欠かせない金属製の釜を供出しなくてはなりませんでした。

酒づくりの命綱を失い、多くの酒蔵と同様、武勇も厳しい状況となりましたが、木の釜を使うなどして細々と酒づくりを続けました。

戦後、もちろん供出した釜が返ってくることはなく、結城でも半分以上の酒蔵が廃業へと追い込まれることとなりました。さらに日本中が深刻な食料不足になり、米は配給制となります。日本酒の原料は米と水。武勇も決められた量の米しか配給されず、生産量を増やすことはできませんでした。ただ酒は国が価格を管理する公定価格だったので値が下がることがなく、なんとか酒づくりを続けることができました。

苦しい戦後を経て

敗戦後の深刻な物資不足、精神的にも疲弊した庶民の生活の中に、小さな光として日本酒が根付き始めます。1日の終わりに、少し値段は高くとも日本酒を飲む。口に含めば米の香りが日常を忘れさせ、心地よい酔いは緊張をほぐします。「よし、明日もがんばろう」と日本酒で気持ちを切り替え、次の日からの仕事に励むことのできた人々が日本中にいたことでしょう。

苦しい戦後を経て、やがて時代は高度経済成長期へと移り変わります。電気製品や車などの産業が好調で国が盛り上がる中、酒蔵を始めとする醸造業は、斜陽の時代を迎えます。

海外からビールやワインなどさまざまな種類の酒が入ってきたり、好景気により高価な外国のウイスキーがステイタスになったり、と日本酒を取り巻く状況が変わってきたのです。また増反政策で米余り現象が加速すると一転、日本酒の生産が過剰になり、価格競争が始まります。酒づくりの過程で砂糖やアルコールを大量に加えて量を増やし、低価格な日本酒を作る酒造メーカーさえ出てきました。

武勇の歴史:写真2

創意工夫と革新性

2000年代に入り、飲酒運転根絶の社会風潮や厳罰化により日本酒消費量はさらに落ち込みます。2011年には東日本大震災が起き、2020年以降の新型コロナウイルス感染症拡大による飲食店の苦境は終わりが見えず、酒蔵にとっても厳しい試練は後を絶ちません。

それでも武勇は、170年間にわたり大変な時代を何度も何度も乗り越えてきました。それはどんな困難の時代にあっても決して妥協することなく、自分たちが納得のいく酒づくりを真面目に続けてきたからだと自負しています。

「ただ古い伝統を守るだけではいけない。時代に合わせて変化する部分も必要だ。これからも創意工夫と革新性をもって酒づくりに邁進し、武勇の歴史をしっかりと守っていく」このことが大切であると考えています。

武勇の歴史:写真3
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